八旛神社
浮島
応神天皇、神功皇后、比売大神を祭神として平安時代、山城石清水八幡宮の
別宮として奉斎したのに始まり、代々河野氏の崇敬を受け、又源頼朝が平家追討に際し、
別当円長に平家追討の祈願を命じ太刀一振を奉納した。
又当社は禁裡仙洞御所並びに今出川家等の崇敬を受けていたが、
天正十三年小早川隆景の兵火に焼かれ社殿、社宝等を失った。
幕末の頃、垣生の勤王家三木左造の宅に滞在中の沢三位宣嘉が、当社に絵馬を
奉納し、また天正陣後、長州毛利家に異変有り、これは天正十三年七月、
小早川氏が、当社を焼いたたたりとして萩の城下に伊予八幡を祀り神慮を慰め、
石鳥居一基を造って八幡神社に奉納のため船に積載して垣生海岸に到着したが、
たまたま一宮神社境内にも伊予八幡と呼ぶ神社が存在するため、何れに奉納すべきか、
全く判定に困り入り、石鳥居を沖に投じたまま萩に帰ったと伝えられていたが、
大正の初年その伝説の鳥居が垣生の海岸から引き揚げられ、
現在八幡神社の内玉垣内に石鳥居の笠の一部が保存されている。
境内には浮島太鼓台の太鼓蔵があります。