昔の太鼓台

新居浜市立図書館発行 新居浜太鼓台より

昔の秋祭りは、旧暦九月に豊稔の秋を言祝ぎ、神恩に報謝するため新穀感謝祭を兼ね、
神慮を慰め奉る為に行われていたもので、家々には幟を立て、
また村の辻々には幟と高張り提灯とが飾られ、祭の当日には氏神を神輿に乗せまいらせて、
神職並びに氏子総代がうやうやしくお供して、黄金色に稔った秋の多の道を厳かに御幸し、
その神輿の後には家躰(台尻)、神輿太鼓、鉾、鎗、鳥毛、幟などが列を正して静々と供奉していたもので、全く神様本意に行われていたものであった。
神輿太鼓というのは現在の太鼓台の事で、天保一三年(1842年)西条藩において公刊された西条誌には一宮神社の船みゆきのことについて下記の如く誌してある。

「船みゆき」
この浦(旧新居浜町のこと)の氏神は金子村の一宮明神なり、九月十九日祭礼の隔年に船みゆきあり、これは、神輿を始め鉾、鎗、鳥毛、幟に至るまで、一切供奉の器伏及び台尻、神輿太鼓というものなどを、大江橋のあたりより船に乗せ、浜手を漕ぎ廻す、陸より望みて甚だ見事なり。
台尻、神輿太鼓、金子村と合わせて一七台あり。

以上西条市の記事にある如く、昔の太鼓台は神輿太鼓と呼ばれたその名の如く、神輿の行列に供奉して静かに行動し、どこまでも神さまのお供の道具とされていて、
単独行動など一切しなかったものであった。
然るに現今においては、太鼓台は全く神輿と離れて別行動をしていることは、祭の本旨にそむくもので、誠に残念な事である。
しかも平和で楽しかるべき秋の祭が、太鼓台の喧嘩により、乱されることは、遺憾ののことであるが、何とかして昔の平和な祭の姿にかえし、神輿に供奉する美しいものにしたいものである。
しかし人間の群衆心理というものは、昔も今も変わらぬもので、昔の人もたまには喧嘩をしたようである。

嘉永二年酉九月吉辰、新居浜浦組頭善右衛門が書いた記録には下記のように誌してある。
東町家躰(台尻)
一、 前幕  緋板
一、 後幕  黒鷲絨
   天保一一年より一四年迄
   同所御輿太鼓(太鼓台)
 子の年より永代御差留に相成る。又々卯年より前々の通り相済み
一、 餝蒲団 緋羅紗
一、 蒲団〆(但縫金糸にて竜)地黒天鵝絨
一、 くくり 地黒天鵝絨
一、 水引(但縫金糸にて竜の玉取) 地白羅紗、緑黒鵝絨
一、 幕(但縫金糸にて牡丹に向獅子) 地緋板
一、 茂多連蒲団 (縫金糸にて漠)
     緑黒天鵝絨、地黒天鵝絨、緑緋羅紗
西条家躰
一、 前幕  緋板
一、 後幕 紫縮緬
一、 水引(但縫金糸にて竜宮海)地緋板、緑黒天鵝絨
一、 幕(但縫金糸にて竜)  地緋板、緑黒天鵝絨
一、 茂多連蒲団(但縫金糸面)
   〆
西原家躰
一、 幕(但縫菊桐)地緋縮緬
   〆
東須賀神輿太鼓
一、 餝蒲団 緋羅紗
一、 蒲団〆(但縫金糸にて竜)地黒天鵝絨
一、 くくり 黒天鵝絨
一、 天幕 緋縮緬
一、 水引(但縫金糸にて四門竜)地緋板、緑黒天鵝絨
一、 幕(但縫金糸にて竜)  地緋板、緑黒天鵝絨
一、 茂多連蒲団(但縫金糸にて竜門)地前黄羅紗、緑緋羅紗
   〆
同所神輿太鼓
子の年永代御差留相成候、又々卯の年より前々通り相済候
一、 餝蒲団 緋板
一、 蒲団〆(但縫金糸にて竜)地黒鵝絨
一、 くくり 黒天鵝絨
一、 天幕 緋縮緬
一、 水引(但縫金糸にて竜)地緋板、緑黒天鵝絨
一、 幕(但縫金糸にて竜宮海玉取) 地緋板、緑黒天鵝絨
一、 茂多連蒲団(但縫金糸にて四門獅子縫)地緋羅紗
   〆
中須賀御船
一、 幕 紅梅綸子
中須賀神輿太鼓
一、 餝蒲団 緋羅紗
一、 蒲団〆(縫金糸にて竜)地黒鵝絨
一、 くくり 黒天鵝絨
一、 天幕 緋縮緬
   〆

右之通相改置く申候以上
寛永二年酉九月
      新居浜組頭   善右衛門
      同         宗右衛門
      同         庄屋の岸太

上の記録によると新居浜には当時(1849年)太鼓台(神輿太鼓)の外に、
御船、台尻などがあったが、御船と台尻はいつしか姿を消して、現在では、
豪華けんらんを極める太鼓台のみが伝わり、新居浜、祭りと言えば太鼓台を連想させる程有名になったが、またこの太鼓台は喧嘩を以って知られ、また天保年間においても東町と東須賀との間に喧嘩が行われ、西条藩は、天保一一年より一三年まで、太鼓台の運行を差し止めている。

 

太鼓台の昔と今

太鼓台は、もともと祭礼のとき、御輿に供奉する山車の一種で、京都の祇園祭のお鉾や、西条の伊曽乃神社の台尻のような物であった、御輿渡御の際、その行列に参加して、清々と糸厳かに供奉していた物で、それだけに大変美しく装飾を施し、金糸を用いて竜の縫をした蒲団〆、また黒どんす「くくり」,緋縮緬の天幕、金糸の縫いをした竜の玉取り、また牡丹に向かい獅子の幕、茂多連蒲団など、それぞれ人物や禽獣、花などの美しい縫を施して、園美しさを競っていた物で、その装飾の縫師は川之江市と観音寺市におり、観音寺からは高木と呼ぶ縫師が秋祭りの三ヶ月くらい前から新居浜に迎えられ、現地において制作をおこなったものであった。
昔は現在と異なって、昼から夜中にかけて提灯を太鼓の四隅に吊して楽しく夜通し担ぐのであった。
平和な江戸時代においても時々喧嘩が行われて、天保年間に西町と東須賀の太鼓が喧嘩をして藩から丸三年間運行が差し止められている。
又、昔、大江と東須賀にそれぞれ一台の太鼓台があったが、ある年観音堂のあたりで大喧嘩があり、そのため同じ漁業者でありながら沖の漁場に迄、喧嘩が持ちこされ、またなかには太鼓の喧嘩が原因して、離婚になることさえあった。
そこで両部落の幹部が協議の末、東須賀と大江の太鼓台を合同して一台にした。
その後、明治の初年に及んで、久保田河原に十数台の太鼓が参集して、その美しさを競っていたとき、江口と大江の太鼓が喧嘩となり、大江の太鼓が石攻めにされ、めっちゃめっちゃになってしまった。その頃内海漁業は、毎年豊漁が続き、大江の漁師たちの経済は実に豊かであった。
そのため大江は、少しも困らず、その翌年、直ちに素晴らしい太鼓台を新調した。
江口においては案じていたのに、大江では少しも困った様子がなく、平穏だったため、それがきっかけとなって、大江と江口部落は仲直りして、その後九十年両部落が、円満な交わりを続けていることも、おもしろい現象である。
大江と東須賀の喧嘩によって、円満に統一が行われ、又大江と江口が喧嘩によって結合されるなど、祭りという神事を通して平和が生まれたわけであろう。
昔の若い衆は実に体力が強く、殊に大江、中須賀などの青年は、漁によって腕を鍛えていたため、非常に腕力があり、太鼓を差し上げて妙技を誇るのであった。
また東町、西町、久保田、江口、新田などは農業によって鍛えていたため、肩が強く、そのため太鼓を担ぐ技術は、また一弾とすぐれていたのであった。
どうしたことか昔から西町、中須賀、西原は、常に結ばれ、江口、久保田、新田、大江、東町の太鼓は、常に睦まじいとされている。
昔の太鼓台は一宮神社境内、久保田河原の両所に集まり、差し方、担ぎ方の妙技を競う内に、時々横に競り合って、喧嘩となり、横倒しにされることもあったが、むかしは喧嘩の際も、飾り付けを取り除く事を恥として、どんなことがあっても飾り付けをとることをしなかったのであった。
また、お互いに体力があったので、車を用いる必要もなく、その運行ぶりは誠にうつくしいものであった。
また一年交互に行われる船御幸には、古来一度も海上における太鼓の喧嘩はなく、その豪華絢爛の海上渡御は誠に壮観で、新居浜の一大名物となっている。
太平洋戦争により人手不足のため、太鼓台の運行にこんなんを極め、そのため太鼓台は車を取り付けて行われるようになり、それがため太鼓台の喧嘩も、横の鉢合わせから車を利用した、正面よりの突っ込みによる方法に変わってきたが、これは祭りの本質を忘れた物で、誠に遺憾の極みである。
昔の五穀豊穣、海上安全、大漁業等を祝ってたころの、美しい行事に復活したい物である。
新居浜の太鼓台は、御輿太鼓、また家躰台尻等とも呼ばれていた物で、明治時代に及んで現在のような形の太鼓台となった物である。
前述の通り、太鼓は元々信仰を対象にした御輿渡御の際の、神具のひとつとして生まれた物で、少なくとも、平安時代ぐらいから発生していた物と考えられ、その頃は、人に見せるという性質の物ではなかったために、太鼓台も至って素朴で、一切装飾は施されていなかった。
この地方においても一柳氏が西条藩主となった寛永十一年になると、人心がやや落ち着き、人々は平和を謳歌して、祭りを楽しむようになり、秋祭りが、いよいよ盛んに行われ、伊曽乃神社では京都祇園神社のお鉾をまねた台尻が作られたようであるが、新居浜の太鼓台も、その頃から、家躰台尻として、まだ御輿太鼓として美しい物が作られたようになった物であろう。
元禄三年、西条藩主松平氏はお国自慢の絵巻物を、仙台藩主の伊達に送った際、二十八台の美しい台尻(伊曽乃神社)の絵を描いていることから、一柳氏が、城下町を開いて五十幾年の間に、この地方の人々の生活が相当安定していた物と考えられ、農民たちは氏神を中心に豊稔の秋を喜び、感謝して、祭りの太鼓台をかついで、唯一の楽しみにしていたであろう、。
又太鼓の飾蒲団、水引、幕などに竜、白虎、獏等の金糸の縫が施されているが、これは神具、即ち御輿渡御の際使用する鉾に取り付けられた、四神旗の絵から取られた物で、青龍(東方)、白虎(西方)、朱雀(南方〕、玄武〔北方)を表現した物と推測される。
昔はこの四神旗が人々によって担がれ、またお鉾の中心に取り付けられ、また四本柱として組み立てられ、これが数人によって担がれていたが、次第に変化して、中央に神楽太鼓が取り付けられて、次々に装飾が加わって今日の如き、太鼓台を作り上げたのである。

新居浜市史より